講師紹介


身体が弱く、競争心の全くない子供

大阪市港区で生まれる

父は、鉄工所を経営

母は、幼稚園の先生 ひとりっ子で育ったせいか競争心など全くなく、ぼーっとしていた。

母曰く 「右を向いてなさい」って言われたらずっとその場で右を向いている、それくらい ぼんやり。

やることも遅く食も少なく、好き嫌いはも多く、スローやモヤシとあだ名が付いたくらい。

 

2歳半でピアノを始める

その母に連れられ2歳半よりピアノレッスンに通う。

なぜか狭い家にも関わらず最初からアップライトピアノを購入してくれた。

多分「嫌だ!」なんて言わない子供だったので続くだろうと思ったのかな?

 

みなと幼稚園(大阪市港区

みなと幼稚園時代も とにかく何をやるのも遅い。

お弁当を食べるのもマイペース。 みんながお帰りの用意をする頃

「私はまだ遊んでないので今から遊ぶわ」そんな子どもだった。

ピアノもマイペースだったと思う。

 

四條畷学園小学校へ

 

スイミングとの出会い

とにかくどんくさくて、自転車に乗れるようになったのは小学校3年。

跳び箱が飛べるようになったのは4年。

逆上がりは5年、登り棒も同じく5年。

しかしその頃水泳の授業が楽しかったのか「スイミングへ通うわ」と宣言。

ここで人生の転機となる。

 

優雅で綺麗なピアノの先生

ピアノはずっと続けていた。

小学1年生から先生に自宅に来てもらってのレッスン。

ピアノの先生は、優雅でおしゃれおまけに綺麗な先生だった。

いつしかピアノの先生に憧れた!

先生のことが大好き。

発表会では、いつも最後に演奏していた。

でも上手いとか下手だとかっていう感覚はその時もなかった。

とにかくマイペースなので言われた通り淡々と練習をしていた。

 

四條畷学園中学校へ

水泳部へ入部。

毎日練習できる環境 担任の先生が体育大学を出た水泳専門の先生だった。

もやしと命名?されていたあだ名が水泳をやることで好き嫌いも無くなり身体がぐんぐん大きくなる。

中学1年生の時に初めて大会に出る! いきなり優勝し、

『あの自転車も乗れなかったむすめが??』

 

両親が一番びっくりしていた。

 

日本選手権

周りが途端に期待し始めたが、もともとボ〜ッとしていたので それさえも気づかなかった。

練習はどんどん厳しくなっていったが、 素直だったため、 『はい。わかりました。』と従った。

タイムが結果として出るのが嬉しかった。

トロフィーも徐々に増えていった。

そして中2、中3で全国大会へ、ついに中3のときに平泳ぎで日本選手権に!!

 

ピアノはやめない

学校を挙げての盛り上がりぶり。 だんだんを自分に自信を持つようになる。

でも、 水泳部に入りながら週1回は休んで、ピアノレッスンを続けていた。

中2くらいから水泳に集中しなさいとピアノをやめさせられそうになったが、 ピアノが大好きだったので、ここだけは死守した。

朝6:15から7:30 授業出て、16時から19時まで、 その後ピアノの練習 そんな毎日だった。

 

四條畷学園の高等部

インターハイ3年連続出場

日本選手権 1回出場

国体 3年連続出場

大会記録なども残す。

卒業時に秩父宮杯を授与された。

 

進路では悩みに悩み 「ピアノはおばあさんになっても弾けるから」 と推薦で天理大学の体育学部へ進学。

 

天理大学

寮生活のためピアノレッスンは辞めることになる。

2年生になって記録で伸び悩む。しかしインカレ総合優勝や国体2年連続出場など相変わらず水泳一色の毎日。ピアノはほぼ弾けなくなる。その頃友人に「ピアノが弾きたいな」と漏らしていたそう。それは全く覚えていなかった(笑)

 

卒業、結婚

YMCA に就職。社会体育の活動をする 就職して2年目で大学の時から付き合っていただんなと結婚。

 

23歳 たまーにピアノを弾くぐらいの生活になる。

25歳で出産

34歳 3人を産みちょうど三男が幼稚園に入ったとき

「ピアノをやってたならうちの子に教えて」 と友人に言われる。

 

ピアノ教えて?

それがきっかけとなり勉強、し直す。

気軽な気持ちでピアノの先生を開始。

指導に自信がなかったのでヤマハの勉強会に参加するようになる 。しかしここでは皆、音大出身おまけに私は趣味で習っていたのでショパンやベートヴェンは弾いていたがハイドンやバッハは弾いたことがない!と気付く。そして平均律?古典?ロマン派?何それ・・と自分の無知に落ち込み、クラシックピアノを再度習い出す。また私が過去に弾いた教材はそもそも30年前。指導法も変わっていると感じバスティンメソッドを勉強する。

しかし楽典的なことは読めば理解出来ても、到底追いつかないものがあった。それはみんなの前で弾合いをする「実技」時だった。早いフレーズや作曲者の意図や,もっと言えば初見力、曲の解説や譜読みやリズムも含めて全てが他の先生についていけないことがわかる。”そりゃそうだよな~私が1日4時間も水に浸かってる数年間、この先生たちはピアノに向かってるんだから太刀打ち出来るはずがないな”

 

そして「政田先生はどこの大学?」と聞かれるたびに「た・・・た・・」と体育大学と言うたびに私のいる場所では無いのかなと感じる。

 

一人のお子さんとの出会いがその後の人生を・・・

34歳 YMCA からプレ保育の話が来る

マット運動やお絵かきをしたり、歌を歌ったり その中で一人の男の子に目がいく

それまでうまく輪に入れず好き勝手にしていたその子が、ピアノがなって歌が流れ始めるとどこからか飛んできてピアノをじっーと見て、座っていた。

興味があるようだった。

その子が自閉症だった。

 

障害児レッスン

その子がきっかけになりもしかして自閉症の子どもでもピアノが弾けるようになるのではと、なぜだか興味が湧いて くる。その頃ちょうど、クラッシックよりも自由なジャズピアノに興味を持ち出し、もうバッハを弾くのはいいかなと思いだす。

 

自閉症とピアノ教育

やる気になれば俄然やりたくなる性格。発達障害児とピアノ教育 などのセミナーや多くの講座に通う

「これはどうも机上の空論。やはり現場に入ってみないとわからない」

と思い、 東大阪障害児施設はばたき園で勉強したい旨を話し、ボランティアで保育に参加。

 

東大阪障害児施設はばたき園

すると「音楽の授業を受け持ってみませんか?」という話になり1年間、音楽の時間を担当する。ここでも前述の子どもと同様、全く発語の出ない子どもや意思疎通のない子どもがピアノや楽器を使用することにより椅子に座り授業に参加出来ることを身を持って体験、おまけに音楽も含め得意の体操を活かして身体を動かすこともやってみる。そしてここでやり甲斐を感じる。その後は 障害者施設や児童デイ、音楽グループなどを経験し私のピアノ教室で”障害児”を受け入れることになる。

 

今現在は重複障害児などが多数在籍、全く発語のない子どももいる。カバンからえんぴつを出すを数年、メリーさんのひつじを2年掛かって弾くなども普通のこと(笑)しかし弾けた時や私が褒めたときはとびっきりの笑顔を見せる。また歌えなくても一緒に身体を動かしたりと生徒と一体感になったとき、これはおそらく体験した者にしかわからないが達成感となる。またピアノを弾くだけではなく、子どもが自立出来るにはと小さな課題を出したり(例:自分のカバンは自分で持とうや出したものは片付ける等)ピアノ教室では珍しい保護者会も運営している。この保護者会ではレッスンの様子を話したり保護者から現在の様子を聞いたり、悩みなどを話す場としても活用している。

佛教大学の教育学部

ピアノ教室をしながらより多岐にわたる障害のことを勉強したくなり、また教育の現場にも興味が沸き50歳で佛教大学の教育学部に入学し特別支援の教員免許状を習得する。

そして現在は特別支援学校の非常勤講師としても稼働している。

 

80人以上の障害児

これまでに80人以上の障害児の子をみる

重度でも褒めると子供さんは喜んでくれる

脳が快になることはとっても大事 。また身体を動かすことも実践する。

お母さんたちから、できないと思っていたのにできるようになった

じっと座れる、物の認識ができるようになった

 

との感想を・・・

 

 

今だから言える子育てストーリー 

仕事よりもしんどい!と思ったのは毎日の食事。

育ち盛りの3人の息子。

ハンバーグならミンチは1Kg。唐揚げは1.5Kg。

ご飯は(お弁当をしていいた)は1升を炊いていました。

 

長男編

とにかく手を掛け、手が掛かる子どもでした。

小学校の時は好奇心も旺盛で「トイレットペーパーの先に火を付けたらどうなる?」

「この建物の屋上から景色を見たい」そんな馬鹿みたいなことをやっては先生から呼び出され私はいつも

「先生、すみません」の連続でした。トイレットペーパー事件では「マッチはどうした!」と先生に怒られても

「家でお父さんがタバコを吸ってるからライターがいっぱいある」などと平然と言ったり

「こんな高い屋根の上に乗って落ちたらどうする!」とこれまた怒られても

「落ちるとわかっている所には乗らない。落ないと思っているから登った」とまあなんというか屁理屈をいい

「お母さん、僕がそんな鈍臭いことすると思う?落ちる~怖い~って思ってる奴は乗らない」と言い返していました。

私は「学園小学校の担任の○○ですが」と電話が掛かる度にまた息子が何かやらかしたんだと胃が痛くなっていました。

 

次男編

「6年生の政田君、その場所から降りなさい」などの校内放送を聞いていた次男は

「僕のお兄ちゃんや!また何かやらかしている」と思っていたらしく保護者である私や夫がペコペコ

頭を下げていたり、「なんであんなに悪いことばっかりするのか」と途方に暮れていた様子を見ていたので

僕はお母さんを悲しませることは辞めようと思っていたそうです。

唯一私と同じ、水泳という道を選び「お母さんは速くて強かったんだ」というのを認識したようで負けじと頑張っていました。

そして私と同じ体育の道へ進み現在は水泳部の顧問をする高校教師となりました。

 

三男編

長男には頭を抱え、次男とは水泳談義をするなかなぜか三男は何をどう立ち回ればうまく生きていけるのかという処世術を学んでいたのか、塾にも行かず(全く手もお金も掛けていない←反省)「この学校に行きたい」などと聞いて「あっそうふーん」と答えていたら、高校受験も大学の指定校も全て自分で決め、親に頼ることなく大きくなったような気がします。 「お母さん、これどう思う?」そんな質問をされた記憶がなく、早くから自立し、「ちょっとカンボジアへ行ってくるわ」「ニューヨークでカウントダウンしてくる。シカゴにも行く、あっついでにメキシコにも行きたいから国際免許取るわ」などと全てを自分で決める、この性格って誰に似たん?と思ってしまいます。

子どもが小さい時「男の子はお腹いっぱい食べさせておいたら非行には走らない」そう聞いたので

仕事よりもしんどい?ご飯作りも頑張れたのかもしれません。